1994.10.05広報とくやま
ふるさとメモリアルシリーズ第8弾
だれもなし遂げられなかった沈没オランダ船の引き揚げに成功!
  村 井 喜 右 衛 門   

喜右衛門肖像画
肖像
■生い立ち
 村井喜右衛門は、宝暦2年(1752)櫛ケ浜に生まれました。小さいころからとても利口で穏やかな性格だったようで、子どもどうしで遊んでいても決して争うことがなく、また、何か事が起きれば沈着で俊敏だったそうです。
 12歳で父と兄について船で九州に行き来するようになった喜右衛門は、13歳のある日、玄界灘を通過中に日が暮れて、舟人さえ暗くて進路が分からなくなったときに、自ら方向を定めて無事肥前の呼子港に達することができ、船中の者を感嘆させました。

■実業家喜右衛門
 成人して船を手に入れた喜右衛門は、事業の成功を期して、大叔父の市兵衛の墓に詣で「叔父さんは胆力を持って海中無双と称され、名を天下後世に伝えられた。わたしは智恵と工夫で叔父さんに近づきたいと思う」と誓いをたてたそうです。
 四海に雄飛する気概を持って事業に当たった喜右衛門は、長崎湾口に位置する肥前領香焼島(現長崎県西彼杵郡香焼町)に漁場を構え、干鰯の商売で大成功を収めます。
 毎年8月から翌年5月までを島で過ごし、近浦近島に多くの網子を従える網元たちから干鰯を買い上げ、信望を集めました。

■オランダ船沈没!
 寛政10年(1798)10月17日、1隻のオランダ船が長崎湾神崎沖で明日の出航を待っていました。日が暮れた後天候が急変、海上は大しけとなり、迂闊にも碇を揚げていたオランダ船は湾口の高鉾島脇の唐人瀬に乗り上げてしまいました。
 この船は、全長41.4m、幅10.8m、マスト長42m、重量1500トン、銅鉄張りの木造船で堅牢に造られていましたが、船底を傷つけて浸水が始まり、必死の排水作業にもかかわらず、沈没を待つのみとなってしまいました。

芙蓉手オランダ東インド会社文皿
皿
 オランダ船難破の知らせを受けた奉行所では、直ちに港にいた船に協力を求め、夜明けを待って難破船を曳航、昼を過ぎてようやく木鉢浦土生田浜まで引き寄せ、90人余りの乗組員全員を無事救助するとともに、上荷のほとんどを回収することができました。しかし、船底に積んだ御用銅数万斤は一斤も回収できないうちに、浸水が船内に充満し、19日の朝、ついに沈没してしまったのです。
■船の引き揚げに挑む人々
 オランダ側は、御用銅が回収されていないことをとても残念がり、どうにかしてこれを引き揚げられないものか奉行所に相談しました。
 奉行は、土地の者に命じ、大勢で取りかからせましたが、寒い時期に向かい人夫は体力の消耗が激しく、気丈に海底に潜っても溺死する者が出るなど、作業は困難をきわめました。何人もの知恵者が、工夫を重ね日を費やして百計を尽くしてみても、いっこうに浮揚する気配はありません。
 ついに奉行は、銅を回収するうまい考えがある者は申し出るよう掲文をします。

■喜右衛門の挑戦
 ちょうどそのころ香焼島にいた喜右衛門は、掲文を読んで智計工夫をこらして方策を案じ、成功不成功を問わず、経費はすべて自分で負担する覚悟でこの難事業への挑戦を申し出ます。喜右衛門が48歳のときでした。
竹でもって綱入れの図
綱掛け
 奉行の命を受けた喜右衛門は、翌年正月17日から、オランダ人から借りた大綱を、竹竿を沢山使って船体にくくり付ける作業に着手しました。
 続いて海中へ22本の柱と132本の添柱を立てるなどの準備をし、同29日までに網船75隻と回船2艘を配置して沈没船をこれにつなぎ、大小900余の滑車を用いて、2月1日から3日にかけてついに浮揚させ、オランダ人が希望する場所まで曳航することに成功したのです。船中の荷物も何一つ失うことがありませんでした。
 この引き揚げ作業には、大小150艘の船が使われ、500両の費用が投じられました。引き揚げの方法は事前に練り上げられ、その手段妙策がことごとく的中して功を奏したので、万人が驚嘆したといいます。
 関係者は大いに喜び、特に、積み荷だけでもと願っていたオランダ人は、全くあきらめていた船まで戻ってきたことに“手の舞い足の踏むところを忘れての”喜びようであったと伝えられています
 奉行は、喜右衛門を奉行所に招いて白銀30枚を贈り、盃でともに祝ったのでした。
 この快挙は江戸幕府に届き、老中松平伊豆守は奉書でその功績を賞し旭日賞の船旗を下賜、長州藩は永世苗字帯刀を許し、オランダからは砂糖20俵が届きました。
 また、世間では「蛮喜和合楽」と題する3枚の詳しい絵図の付いた木版本が出版され、喜右衛門が行った引き揚げ作業のようすなどを大々的に伝えました。

■人徳をしのばせる石灯籠
 こうして名をはせた喜右衛門ですが、文化元年(1804)7月ごろから体の不調を覚えるようになり、自分の死が近いことを悟ります。「人にはそれぞれ向き不向きがある」と家業は弟の亀次郎に譲り、わが子には仕官の道を歩むよう諭して、同年8月4日に53歳で亡くなりました。
 生前、喜右衛門は神仏への信仰が篤く、方々の神社仏閣から喜捨を求められると必ずこれに応じていました。その中の一つ、遠石八幡宮の境内には、喜右衛門と亀次郎の寄進した灯籠が2基現存しています。
 喜右衛門は、久米の原江寺の村井家の墓所に、その子正豊、孫の正純とともに静かに眠っています。

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